言語は聞くことから

子供を育てて,何度も思うのは言語はまず聞くこと,次に話すことなのだということである。

読む,書くは後だ。識字率というくらいだから,字があとなのは当たり前なのだが,本当にどうやって言語を習得するのだろうか?

ーーーーーー
Gouldさんが紹介していた,ある本(今失念)で知ったが,
成人後聴覚障害になった人に人工内耳をつけて音の振動を電気的信号に機械で変換し,聴神経に伝えると,はじめは雑音だったのが,1年くらいすると聞こえ出すというのにはぶったまげた。
そういえば,逆さ眼がねといって上下左右が反対になるめがねをかけると,頭がくらくらし,おしっこが自分に向かってくるように感じるらしいが,しばらくするとそれになれて自転車もこげるようになるとなにかの本に書いてあった。

子供の鏡文字もおもしろい。どんな脳内回路なのだろうか?

なんで子供は勉強が好きなのか?

小学校1年算数では100までの数をならい,その足し算,引き算をならう。

だか,子供の知的好奇心はとどまることを知らず,
100の次は101?

1000000はなんていうの?ひゃく,ななひゃくにじゅうさんてある?など質問攻めで,正直ちょっと辟易する。

しかし,今,「ちょっといそがしいから」とかいうといけないような気がして頑張って答えることにしている。

つるつるする紙はどうやって作るの?といわれてわからない。

ソクラテスに質問攻めにされて「無知の知」を知る気分である。

独法化のあおりを受けて、いまだ文献複写サービスが利用できない。

システム調整中だということであるが、もう何年も前から独法化するのはわかっていたはずである。研究で生き残りを賭けるというのが単なるスローガンであるといわれても仕方が無い状況である。同じような状況として、JRの架線高架化工事などでの失態が取りざたされていた。回転自動ドアの事故もそうだ。

時計の見方

子供に今何時といわれて,時計の見方をおしえようとするが,これがなかなか難しい。

小学校1年での時計の見方は新学習指導要領で算数から消えた。3年生でならうのである。

1,2,3,4,と時は書いてあるアナログ時計が多く,
「短い針が3と4の間なら3時台だよ。」と教えている。

分であるが,細かい目盛りが12と1の間に4目盛りきってあればそれをかぞえさせて,「長い針が1,2,3,4,5目盛りだから5分,10目盛りだから10分」と教えられるのだが,実際には12と1の間は5目盛りきってあって,つまり1目盛り10分なのである。短い針で分までわかるということだろうが,これでは長い針で分を教えるのが難しい。他の時計もそうだろうか?
どうやって自分が理解したのか覚えていないが,子供になぜと聞かれて答えられないことのなんとおおいことか?

子供を見る目がない

下の子は母親べったりである。いつも母親にくっついている。
夜も私とは寝てくれない。

だから、幼稚園にいきだしたらば、母親と別れて泣き叫ぶだろうと予想していた。ところがである。なんと一度も泣かない。幼稚園にもっといたいと帰るのをしぶるぐらいだそうである。

学校というのはよほど楽しいらしい。上の子も小学校に行くのが楽しくて仕方ないようだ。

予想は見事にはずれた。子供を見る目がないと実感した次第である。

いまどこサービス大活躍

子供の学校が始まった。しばらくは大変である。
私自身も4月は忙しいので簡単な日記内容とする。
下の子も幼稚園に行きだしたのでこれも大変。

朝、一緒にバスにのり駅までいく。何度も練習したので大丈夫と思ったが、心配である。駅には先生がいらっしゃった。ご苦労様です。頭がさがる。

帰り。1人でバスで帰れるといいはったそうだ。私はパソコンでいまどこサービス利用で位置確認。駅前についたな。(しばらく後)途中経路にいまこことでる(バスは40km/hなのでいまどこ利用できて便利だ)。ところがしばらくしていまどこしてみると、む?終点営業所付近にいまこことでる。これはやったな。(家の前のバス停でピンポン押しそこね、下車しそこねて終点までいったそうだ。)
バス会社に連絡。折り返しのバスに乗せてもらい、降ろしてもらえるとのこと。バス会社の皆様ありがとうございました。